2010年10月14日木曜日

film camera_focus_shutter

夏にfilm cameraで散歩をしたときの一コマ。
いまや仕事ではすっかりデジタルカメラになってしまったけれど(環境的にもデジタルでなければ仕事にならない)、いまだプライベートではフィルムを愛用しているよ。
どっちがいいとかってことじゃなく、リズムが違うんだよね。写真を撮るリズムが。
フィルムのカメラは、手巻きでfocusもマニュアル、ワインダー(連写するための装置)も付けない。自然と、一枚ずつ大切に撮るようになるんだよね。
あと、出来上がりが現像が終わるまでわからないってのも、古くて新しい感覚っていうか。上がりを見るのが楽しみなんだよね。
フィルムカメラは、フィルムの巻き上げ、露出の決定、ピントあわせ等写真を撮るために必要な一連の操作を、人が自らの手で行わねばなりません。
(注)3つの操作の1つ、2つあるいは3つ全部をオートでやってくれる機種ももちろんありますが、こうした機種のお話しは後回し。いずれその効用についてもお話ししたいと思います。
 これら操作が煩わしいとお感じになる方もいらっしゃるでしょうね。大抵の人類がそうかもしれません。小生もその感覚を否定しません。なにより、人類の進歩とは、人の手で行わなければならない行為を、機械に委ねることとほぼ同義なわけですからね。
 でもあまりにも便利になりすぎた結果、写真を撮るという、人間の主体的であるべき行為が、単にカメラのshutterを押すだけの従属的な行為に貶められてしまっていないでしょうか。そのうち、構図(つまり写す対象そのもの)も、カメラが決めてくれるデジカメが登場するかもしれません。いまでも、笑顔にピントがあった途端、シャッターが切れるという、ある意味究極のオート機もあるそうで、あながち冗談で終わりそうにない恐ろしさがあります。
 そしてこうした人間の主体的な関与の余地の狭まりは、何もカメラの分野だけではありません。車も家電も、人の関与を許さない「ブラックボックス」化が急速に進行しています。
 そうした時代であるからこそ、人が自らの手で主体的に関与し、その代わり自らの行為の結果を全面的に引き受ける分野を残しておきたいと思います。その、いまや数少ない分野がfilm cameraの分野です。
 先日ご紹介したミノルタA5などは、カメラ本体に露出計すらついていません。「晴れの日中、日向であればshutterスピード250、絞りは8。日陰なら60の5.6ね」。こんな、「マントラ」を唱えながら露出を決定しております(ただし、ネガフィルムならたいていこれで間に合いますがね。夕方や夜はお酒飲むので、デジカメならともかくフィルムでは写真撮らないし・・・)。
 1枚撮っては、フィルムを巻き上げる、その手触りに主体的に生きているという感覚が呼びさまされますょ~(←高揚してちょっとオーバーな表現やね。)。 

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